今年35歳、ASD女性による弱々職歴を書いてみる①~卒業後すぐあたり

フリービーAC

今回は私の「職歴」を紹介してみようと思います。

2013年の四大卒、でありながら、当時未診断だったASD(自閉スペクトラム症)による雑な職業選択、アレな振る舞いの数々……!

そもそも在学中から精神に影響をきたしていた

大学3年生時、私は「演劇サークルの裏方」と「軽音楽部」の活動にいそしんでいました。

参加していた演劇サークルは「冬に年一度のデカめの公演を打つスタイル」で、私は衣装チーフ。

しかしながら、ASDで対人関係が苦手なため、後輩ちゃん達の扱いや「リーダーポジションの振る舞い」を頑張るも、けっこうなストレスを抱えていました。

「若いからアリ」なのかな!? な不快な振る舞いもチーフ陣に対して行いました。

おまけに「軽音楽部の練習をすっぽかす事件」も頻発。

バンドを首になり、所属バンドがない状態に……!

そんなこんなで、無事に2011年の公演を終えることはできたものの、精神的にはけっこう弱っていました。

抑うつ状態を呈して、頭が働いていなかった。

でも当時は「どこかに相談する」って発想が持てなかったです。

「とりあえず大学だけは卒業するべ」ということで、大学4年時はとにかく卒業論文を書くことだけを意識していました。

職歴①:洋服のお直し屋さん

精神的に弱る中、卒業論文が「大丈夫なやつ」と認識され、卒業できることになりました。

しかしながら、当然就活はしていません。

恐ろしいことに、ハローワークすらよく知らない私は「タウンワーク」を開きました。

そして掲載されていた「洋服のお直し屋さんのそこそこ大き目な募集(パート)」を見て、応募することにしました。

高校時代から独学で洋裁を開始し、ミシンの操作は問題ないだろうと思ったためです。

なんと、採用されました。

そして研修を「本州の本社工場」で行うことになったのです。

卒業式の懇親会がありましたが、スケジュール的に参加が叶わず、本州の本社へ「新卒の同期二人」と飛びました。

本社の近隣に借りてもらったらしい物件にルームシェアのようにしてちょっと住むことに。

同期は某服飾系専門学校の卒業生でした。

この時、彼女たちの言動から「服飾の専門学校への偏見」? っていうか、「きっと子供が行きたいって言っても抵抗を持つだろうな」という気持ちが生まれましたね。

お仕事として、本社工場でお直しを教わり、作業を行うことに。

「テーパードパンツの裾上げの際は、折り返した時ちょうどいい形になるように縫い代を末広がりの形状にする」

「生地から糸が『ピョッ!』と飛び出したような場合は糸を通した針をくぐらせて生地に馴染ませ綺麗な見た目にする」

「ラグランスリーブの肩出しは超絶難しいテクニックを要するらしい(噂)」

「なんか『ブシュー!』となる業務用スチームアイロンの操作」

……みたいな知見が重なります。

(こんな研修の日々の合間に、東京まで電車に乗って「ヒカシュー」のライブに出かけた思い出がございます。ちょうど「うらごえ」発売の頃でした。)

しかしながら、本州の本社研修を行った後には、地方の店舗での研修が待っています。

そこで、挫折しました。

慣れたのは「本社工場で求められる動作」でした。

「店舗で求められる動作」とギャップがあり、何やら不適応を起こしたのです。

もちろん「服飾の学校卒の同期たち」や「店舗向け研修を問題なくこなす非服飾学校卒のお姉さんたち」の動きに凹んだのもあります。

振る舞いも散々で、2か月で「契約更改しない」となり、辞めました。

職歴②:自治体主催の就職支援プログラム

その後は、「ジョブキタ」などを見ながら応募を重ねましたが、箸にも棒にも掛からぬ有様です。

「大卒でお直し屋さんをすぐ辞めた」人って、変だしね。

その後、ハロワで「若年者就職支援プログラム」の存在を知り、応募しました。

それは「自治体の委託を受けた複数の企業が、契約社員として有給で研修生に研修を施し、職場実習を経て就職につなげる」というものでした。

2013年の秋、私はそのうちの一社に「採用」となりました。

「班」ができました。

後ろの席になった同じ班の女の子が、「私このキャラのコスプレしたいんだよね~」と、なんと「丸尾末広『少女椿』のみどりちゃん」の画像を見せてきたり、新田次郎の『八甲田山死の彷徨 』を何やらブロマンス的に読むのが好きらしかったりと、オタク的にめっちゃ意気投合しました。(今もLINEでやり取りする仲です)

彼女から、商業高校でバリバリ学んで得た知見を共有してもらったり、講師の研修講義を受けたりと、楽しく前向きに過ごせました。

しかし困難に直面します。

「日中の眠気」です。

当時は、睡眠時間は問題ないと思っていました。

一晩に「6.5~7時間」は寝ていましたからです。

それでも、講義中に眠くなり、ウトウトするのが止められない。

エスタロンモカを飲んでも眠気は止まらず、逆に夜中に眠れず悪夢を見るなどの事態に陥りました。

今となっては、「一晩に6.5~7時間の睡眠」は、若いから何とかなってるだけで、ちょっと足りないと思います。

発達障害に見られる睡眠の問題もありそうです。

でも当時はわからなかった。

おまけに、当時はまだなんと「履歴書は手書き」の時代でした。

履歴書を何度も書き損じて処分するとか、宛名の社名がやや斜めに書いちゃったから「書き直しなさい」と指示される。

一度私物の「トレース台(絵を描くのに使うやつ)」を持参して履歴書を量産しようとしたのですが、「一人だけそれは認めない」と……!

とても苦しかったです。

おまけに、「座学研修」を受けた後の「職場実習」の行き先です。

なかなか決まらず、業を煮やしたスタッフにそそのかされて「定山渓地区のホテル」に見学に行きました。

接客業は、学生時代からバイトで短期間やったり、洋服のお直し屋さんでも十分に研修を受けてきました。

だから、やってみてできないことはないだろう、という魂胆で職場実習に行きますと決めました。

私一人だけ……! 両親の協力を得て家電を揃えるなどして、ホテルの寮にお引越しです。

そこで、まあメチャクチャ病みましたね。

当時は免許も車もなく、スーパーはバスで20分ほどの南区・藤野エリアに行くしかありません。

寮は一食分まかないがありましたが、なかなか野菜を食べる機会がなくなりました。タンパク質も、卵とソーセージのみで、食物繊維は乾燥ワカメばかりから摂取していました。

栄養の偏りと、お仕事の過酷さ。

基本的にコミュ障というか人間不信で「他者は私をキモがる」「触ったところをバイキン扱いされるかも」って不安を持つタイプなので、頑張って笑顔を作ることや、お茶出しをするのにテキパキすることが求められるのが大変でしたね。(いわゆる「動作性IQ」が低いタイプです)

結局2か月でギブアップ。寮を引き払って、実家に戻りました。

そして抑うつ症状を呈して、初めて精神科クリニックの門を叩きました。

当時を振り返って……。

恐ろしく文章が長くなりすぎたので、本テーマは「①」としてシリーズものにいたします。

やはり思う。ASD気質のせいか、社会への意識や振る舞いがまるでなっていません。

在学中に心身の健康や、就職について相談できたなら。実行するかどうかはさておき、例えば一年ほど「休学」という選択肢も取れたかもしれません。

でも、なかなか想像がつかないのです。

お仕事面についても、「認識が甘い」というか、無茶な選択や振る舞いをしていた気もします。

でも良かったことは、「この時初めて精神科クリニックを受診した」ことです。

そう、社会保険つまり「厚生年金に加入していた」ため、2019年にASD自閉スペクトラム症の診断がついた時に「障害厚生年金3級」の資格を得ることができました。

今のように、障害年金の認定が困難になる前のことでもありました。

これにより定期的なお振込みがあるから、私は今こうして生きていられてると言っても過言ではありません。

このシリーズは、需要があるかはわかりかねますが、「ASD当事者の認識や経験を話す」ことで支援や気づきにつながればいいと思って書いていきます。

その後も面白いお仕事経験をたくさんいたしました。

ASD自閉スペクトラム症の当事者の経験や知見をエンタメ感あるように書いていくつもりですので、ぜひご覧くださいませ!

真リオでした。